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1902年3月16日、ウィーンの裕福なユダヤ人家庭に生まれたルーシー・リーは、小児科医の父と母、二人の兄と共に何不自由ない環境で幸福な子ども時代を過ごします。
20世紀初頭のウィーンは芸術面では繁栄のさなかにあり、ヨーロッパの新しい文化を先導する都市の一つでした。美術界ではクリムトやシーレが活躍し、精神分析のジークムント・フロイトが「夢判断」を出版したのもこの頃。ルーシーの父はフロイトの相談役をつとめ親交があったそうです。工芸の世界にも機能性と美を一体と考える近代デザインの原点ともいうべき新しい流れが生まれつつありました。 |
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| やがて工業美術学校に入学して陶芸家のミヒャエル・ポヴォルニーの指導のもと陶芸の道を志すことになったルーシーは、「ウィーン分離派」の代表的な建築デザイナーであるヨーゼフ・ホフマンにも出会い少なからず影響を受けたといいます。多くを学んだ学生生活を終え、美術学校を卒業すると同時に実業家のハンス・リーと結婚。その新居のデザインを依頼して出会ったのが、モダニズムの若き天才建築家エルンスト・プリシュケでした。ドイツ・バウハウスのデザイン思考を先取りしたと言われるプリシュケの機能主義的な感性にルーシーは強く惹かれ二人は友人となります。プリシュケの存在は、彼女の作品の根底に流れるモダニズムの概念にも影響を与えたと言われるほど。ルーシーは同時代の近代建築やデザインから、簡潔なフォルムを志向するようになるのです。ウィーンで結婚生活と陶芸活動を開始した彼女は展覧会でもいくつかの賞をとり、新進陶芸家としての地位を固めてゆきました。 |
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| ルーシー・リーが住んでいたアルビオン・ミューズにある蔦がからまる家 |
1938年、戦争の足音が近づいてくるとルーシーは夫と共にイギリスへ亡命。しかし結婚生活は破綻をきたし約1年後には離婚。ハンスはアメリカへ渡り、ルーシーはロンドンのアルビオン・ミューズという路地に小さな自宅兼工房を構え、陶芸家として再スタートを切ることになります。
イギリスを亡命先に選んだ理由は陶芸活動を推奨していたということと、日本の民藝運動とも縁の深い陶芸界の巨匠バーナード・リーチの存在でした。ルーシーは訪ねていって力になってもらおうと考えたのです。しかし東洋思想の影響を受けていた彼にはルーシーの器はあまりにもモダンなものに思えたのでしょう。リーチは最初ルーシーの器を評価しませんでした。それでも彼女の才能は認め、自分が教える陶芸コースに参加するよう勧めます。リーチの仕事ぶりを見たルーシーは大きな衝撃を受けて「リーチの期待に添いたい」と切に願ったといいます。その想いは作品にも現れ、リーチ風の肉厚で力強い作風がこの時期の特徴になっています。制作の過渡期ともいえますが、彼女自身はそれをあまり評価していなかったようです。 |
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やがて第二次世界大戦が勃発すると、陶芸活動は中断されルーシーは生活のために陶器のボタン作りを始めます。この陶製ボタン作りの課程で彼女は様々な釉薬の実験を重ね、豊富な知識と経験を蓄積してゆくのです。
そんな頃アシスタントに志願してきたのが、天性の陶芸の才能を持った青年ハンス・コパ-でした。1946年のこの時から、彼はルーシーの創作活動に計りしれない影響を与えることになります。ハンスは短期間でろくろの技術を習得。昼間はボタンを作り、やがて夕方からはルーシーと共同で作品を制作するようになります。ルーシーはハンスのことを常にアーティストとして認め信頼をよせていました。ウィーン時代からのルーシーの信念はリーチに認められないことで揺らいでいましたが、そんな時も自分の個性を絶賛してくれるハンスの言葉に励まされ自信を取り戻していったのです。彼女は口癖のように「ハンスは正真正銘の芸術家だけど、私はただの陶芸家よ。」と語っていたとか。40~50年代にルーシーとハンスが共同で制作した作品には、二人のイニシャルが並んで刻まれているのがほほえましいですね。 |
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| 40年代後半から50年代にかけてカップ&ソーサーなどの実用的な器を制作するようになり、工房の仕事は軌道に乗ります。彼らの作品はイギリス、アメリカ、ニュージーランド、ドイツでも徐々に認められてゆきました。有名な“掻き落とし”の技法を発見したのもこの頃。ドライブ先で立ち寄ったエイヴベリーの博物館で、鳥の骨で削り模様が描かれた小さな器を発見したルーシーはその技法にインスピレーションを受け、骨ではなく編み針を使ってこれを再現。さらに「編み目模様」として確立し、以後彼女の作品の代表的なモティーフとして発展させてゆきます。ルーシーは外出を好まなかったといいますが交友は広く、いつもお手製のチョコレートケーキとコーヒーで客人をもてなしました。アルビオン・ミューズの工房には親しい友達や仲間が押し寄せ、時には泊り客があふれ、椅子や床、テーブルをベッド代わりにしていたといいます。 |
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| ルーシー・リーの部屋 |
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| ルーシー・リーの工房で |
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50年代初頭からは陶器の他に磁器も手がけるようになり、ルーシーのモダニズムは一層鮮やかに開花してゆきます。リーチもルーシーの新しい作風を認め、新たな才能を世に出すために力を尽くしました。58年にはハンス・コパ-が独立してそれぞれの道を歩み始めますが、二人の友情は生涯変わらずに続きました。
88歳に脳梗塞で倒れるまで人生のほとんどを陶芸に捧げ、最後までチャレンジを続け信念を貫いたルーシー。作品は年を重ねるごとに自由に大胆さを増し、新しく生み出される釉薬は華麗な色彩を放ちます。
「窯を開ける時はいつも驚きの連続なのよ」と語っていた彼女は、1995年に自宅で93年の生涯を閉じました。20世紀を生き抜いたルーシーの器はその後も評価を高め、今もなお世界中で愛され続けています。 |
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うつわの写真:《ピンク線文鉢》1970年代後半
東京国立近代美術館蔵
Estate of the artist
その他の写真:Harley Carpenter |